日本名人 | 石田三成 |
释义 |
石田三成听听怎么读
いしだ みつなり
是什么意思 中文简介石田三成(1560年-1600年10月1日)是日本战国时代和安土桃山时代的武将及大名,幼名佐吉,初名三也,关原之战中西军的实际领导者。石田三成的父亲是地侍石田正继,正室是宇多赖忠的女儿皎月院。近江坂田郡石田村人(今滋贺县长滨市石田町),为丰臣政权的五奉行之一。以忠诚、仁义、足智多谋著称。最初因为"三献茶"事件得到羽柴秀吉(丰臣秀吉)的赏识,并成为秀吉的得力干将,后来更成为日本最高权力机构"五奉行"的首席元老。丰臣秀吉死后拥立其子秀赖。并与五大老之一的德川家康以及武将派对立。1600年,关原之战爆发,石田三成率领的西军在此战中被德川家康率领的东军虐袭战中击破,三成本人也在不久后被捕并斩于京都的六条河原。时年四十岁。石田三成死后不久,丰臣家族旋即垮台,天下被德川氏取而代之。
日文简介永禄(えいろく)3年生まれ。石田正澄の弟。羽柴(豊臣)秀吉の近侍をつとめ,のち治部少輔(じぶのしょう)。知将として秀吉の全国制覇の戦いにしたがう。軍事よりも内政や吏務にすぐれ,堺奉行をかね,太閤検地を実施して,五奉行の筆頭となる。文禄4年近江(おうみ)(滋賀県)佐和山城主。19万石。秀吉の死後,徳川家康と対立し,関ケ原の戦いに敗れて捕らえられ,慶長5年10月1日京都で斬られた。41歳。近江出身。初名は三也。通称は佐吉。 【格言など】万が一も家康うろたへ上候はば,尾州三州之間にて可討果儀(討ち果たすべき儀),案中(あんちゅう)に候 |
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