日本名人 | 上杉謙信 |
释义 |
上杉謙信听听怎么读
うえすぎけんしん
是什么意思 中文简介上杉谦信(うえすぎけんしん)(1530年2月18日-1578年4月19日),日本战国时代名将。越后国守护代长尾为景幼子,幼名虎千代,成年后称长尾景虎。由于继承了关东管领"上杉"姓氏,并先后得到关东管领上杉宪政和将军足利义辉的赐名,故又称上杉政虎、上杉辉虎。天文十七年(1548年)十二月,上杉谦信作为长尾晴景的养子继承家督和守护代职。天文二十一年(1552年)上杉谦信开始进军关东,翌年爆发了对武田氏的第一次川中岛合战。武田信玄在弘治元年(1555年)第二次大举进兵川中岛,两雄对峙了一百五十多天。弘治三年(1557年),武田军进逼栃尾城,第三次川中岛合战爆发,但无果。同年,关东管领上杉宪政将关东管领职、系图、重宝等一起转让给了上杉谦信。永禄四年(1561年)爆发了与武田氏的第四次川中岛合战。元龟三年(1572年),武田信玄突然病死于进京途中。死前曾嘱胜赖与上杉谦信修好,并以为依托。天正五年(1
日文简介享禄(きょうろく)3年1月21日生まれ。長尾為景の子。天文(てんぶん)17年兄長尾晴景の跡をつぎ越後(えちご)(新潟県)守護代,春日山城主。守護上杉定実の死後同国を支配。のち越中?加賀?能登(のと)までを勢力範囲とする。信濃(しなの),関東で武田信玄や北条氏康とあらそう。信玄との川中島の戦いは有名。永禄(えいろく)4年上杉憲政より上杉の姓と関東管領職をゆずられる。関東への出陣直前の天正(てんしょう)6年3月13日急死した。49歳。幼名は虎千代。名は景虎,政虎,輝虎。 【格言など】死なんと戦えば生き,生きんと戦えば必ず死するものなり |
随便看 |
|
日本名人录收录5984个日本名人词条,基本涵盖了全部常用日本名人的释义,是日语学习及工作的有利工具。