日本名人 | 島津久光 |
释义 |
島津久光听听怎么读
しまづ ひさみつ
是什么意思 中文简介岛津久光(1817-1887年)江户幕府末期萨摩藩主岛津忠义之父。岛津齐兴的第五子,岛津齐彬的异母弟。曾与齐彬争夺"家督",但失败。齐彬死后按其遗训由久光之子忠义继任藩主,久光作为国父掌握实权。1862年(文久2年),久光为实现"公武合体"而率兵进京,一方面利用"寺田屋骚动"镇压尊攘派,一方面侍奉敕使大原重德赴江户,逼迫幕府实行幕政改革。结果实现了一桥庆喜就任将军后见职,松平庆永任政事总裁职。在1863年底到1864年(元治元年)初的参预会议上,久光也掌握了主导权。1864年禁门之变时,与会津藩的军队共同对长州兵作战并将其击败。明治维新后,他内心反对废藩置县。1874年(明治7年)任左大臣,但因其强烈的保守性,意见未被采纳,不久隐退回乡。
日文简介文化14年10月24日生まれ。島津斉興(なりおき)の5男。母はお由羅。薩摩(さつま)鹿児島藩重富領主。異母兄斉彬(なりあきら)の遺命で子の忠義が鹿児島藩主となると,本家に復帰して国父とよばれ藩政の実権をにぎる。文久2年(1862)兵をひきいて京都にはいり,藩の尊攘(そんじょう)過激派を弾圧(寺田屋事件)。また,勅使大原重徳(しげとみ)を奉じて江戸に行き幕政改革を実施させるなど,公武合体運動をすすめる。帰途,生麦事件が発生し,薩英戦争をまねいた。維新後,内閣顧問?左大臣に就任したが,保守的意見がいれられず,明治8年隠退した。明治20年12月6日死去。71歳。初名は忠教。通称は又次郎。号は双松など。 |
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