日本名人 | 志賀親次 |
释义 |
志賀親次听听怎么读
しが ちかつぐ
是什么意思 中文简介与讬摩、田原氏并称大友三大支族。志贺能乡又让庶长子入继承筑紫尾寺、泊寺院主职,后来禅季脉移往直入郡白丹的南山城,因此本家由志贺能乡嫡子泰朝所传承者便被称呼为北志贺,而禅季一脉则称呼为南志贺,世代并为大友家效力,而志贺亲次即是属于北志贺的后裔。死守罔城。以千人兵力抵挡岛津大军,并夺回数城。 丰臣秀吉赏其领地。被岛津义弘称为"天正楠木"。
日文简介永禄(えいろく)9年?生まれ。志賀親度(ちかのり)の子。豊後(ぶんご)(大分県)岡城主。キリシタンで,洗礼名はドン=パウロ。天正(てんしょう)14年(1586)の島津氏の侵攻にたえ岡城をまもる。文禄(ぶんろく)の役では大友義統(よしむね)にしたがって朝鮮へ出陣。義統の改易(かいえき)後,福島正則,ついで小早川秀秋につかえた。名は親善(ちかよし)とも。通称は小左衛門尉(こざえもんのじょう)。 |
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