日本名人 | 橋本左内 |
释义 |
橋本左内听听怎么读
はしもとさない
是什么意思 中文简介桥本左内,幕末开国论者,福井藩士,早年师于儒医吉田东篁,1849年从绪方洪庵学西医和兰学。当过藩医,1854年游江户,从彬田成卿学兰学,后任福井藩校明道馆学监,开设西式学堂,致力于藩政改革,为藩主松平庆永谋臣,主张改革幕政,建立统一国家、开国通商并与俄国结盟。1858年初,美国要求签订《日美友好通商条约》,受庆永命赴京都活动,游说在京贵族,以使天皇批准条约(条约敕许)。同年,因主张拥立德川庆喜继任将军,为反对派井伊直弼抓进牢狱(安政大狱),次年处死。
日文简介天保(てんぽう)5年3月11日生まれ。橋本長綱の長男。越前福井藩士。緒方洪庵にまなび,父の跡をついで藩医となる。安政元年江戸にでて藤田東湖らとまじわり,4年藩主松平慶永(よしなが)の侍講兼内用掛となる。開国貿易論を提唱し,将軍継嗣問題では一橋慶喜(よしのぶ)の擁立につくし幕政改革をとなえたが,安政の大獄で6年10月7日刑死。26歳。名は綱紀(つなのり)。字(あざな)は伯綱,弘道。号は景岳など。著作に「啓発録」など。 【格言など】稚とはすべて水くさき処ありて,物の熟して旨き味のなきを申也(「啓発録」) |
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